「不思議の息子」の父さんが語る不思議症の世界の話
3~4歳時「中機能自閉症」「知的障害有無の境界」と診断、判定され、小学校入学時にまだ「おうむ返し」以外の言葉、つまり「会話」がなかった息子。
それからいろいろあって9年後、2012年春、彼は普通に高校受験して入学し、現在通学しています。
一応の進学校に入ってしまったので、入学当初から大学受験に向けたプレッシャーをかけられ続けて、親が見ていてもちょっと気の毒なくらいです。
そんな息子は、当然ですがとても不思議な頭をしています。小さい時診断された通り「自閉症」なのかどうか、彼が高校生になるまでつきあっても私には確信が持てません。しかし、何か普通でないことは確かです。
私はこれを「不思議症」と名づけました。
「不思議症」の子供であることが分かって約十年、その間に同じ「不思議症」を持つ子供さんたちとある程度の数出会ってきましたが、息子の場合、かなりうまく成長してくれた例ではないかと感じています。
そんな息子の成長の過程と、頭の中の不思議と、比較的うまく成長してくれた理由と、彼を育てる上で知ったいろいろなことを、必要な方に知っていただければお役に立つのでは、と思いこのサイトをはじめ、いろいろやってみることにしました。
題して「不思議症の世界に住む息子の話」。
ご興味あれば、おつきあいください。
← もくじに戻る
1956年生まれ
公務員の父親と専業主婦の母親のもと、ごく普通の子供時代をおくる
1976年大学入学
「なんとなく」心理学を専攻。
「たまたま」ご指導いただいた教授が「大脳生理学」系の研究者
1980年
広告業界の小さな会社に就職
1988年独立
1年半のフリーランスを経て事務所を法人化・現在はウェブ制作会社を自営
1995年結婚
自身39歳、配偶者35歳
1996年長男誕生
自身40歳、配偶者36歳
1999年頃
長男の「不思議症」発覚 以後「不思議症」子育て開始
2001年
長男 幼稚園入園
2003年
長男 小学校入学
2009年
長男 中学校入学
2012年
長男 高校入学
自分自身、大学に入学した時点で心理学を専攻しようと決めていた訳ではありません。
文学部で入学し、2回生で専攻を決めなくてはならなくなったとき、文学部の中に自分が興味を持てるものが心理学しかないと感じて、必然的にそうなりました。
後で考えると、子供の時から抱えていた、何か周囲の人々に自然に溶け込めない疎外感のようなものや、自分自身の中に「別の生き物」がいるように感じる違和感に対して興味があり、それが私に心理学を選ばせる原動力であった気がします。
私はそれが「感情」と関係があるのではないかと考え、研究テーマを決める際に「感情」に関することにしたいと申告しました。すると、心理学教室で唯一医学博士の学位をお持ちの大脳生理学系の教授が「情動」を研究テーマとされていて、その教授のご指導を仰ぐことになりました。
そんなことから、最近大流行の「脳科学」の分野には大学卒業以来現在に至るまで興味があり、その手の本も結構読み漁っています。
もちろんあくまで一般向けのものを興味本位で読むレベルなのですが。
そんな私が、自身出身大学の大学病院から「自閉症」と診断された子供を持つことになり、自分の子供に対する思いと、心理学や大脳生理学を齧った人間として身近な研究対象を見る視点とが交錯する中で子育てをすることで、案外どちらか一方の立場だけでは気づきにくい様々なことがあるような気がしてきました。
そこで、折角蓄積したいろいろを、これから子育てをされる方、特に「不思議症・有」と診断されたお子さんを育てて行こうとされる方に役立ててけるようにご紹介させていたこうと思い立ちました。
← もくじに戻る
私の息子は、4歳前くらいに大学病院で「中機能自閉症」と診断されました。
しかし、その前に診ていただいた、子供の心身医療の専門機関では、特に症名は言われませんでした。
「自閉症」を単純に調べると、赤ん坊の段階から「目が合わない」「表情がない」「呼びかけても反応しない」…から始まり、幼児期になると「ルーチンに強いこだわりを示す」「他の子供と関わらない」等々、いろいろな兆候が紹介されています。
しかし、私の息子の場合、そのほとんどに該当しませんでした。ただ、おうむ返しで語彙は増えるものの、自発的な言葉はいつまで経ってもほとんど出て来ず、ついにはそのまま小学生になってしまいました。
一般的には発語間もなく言葉による双方向のやりとりで精神的にどんどん成長していくのが人間ですから、息子のような状態ですと当然精神的な成長が大いに遅れていきます。
しかしそれも「遅れている」という視点と「遅い」という視点では考え方が大きく違ってきます。
「遅れている」というのは、一般的な速度があって、それについていけていない、というのが主な論点ですが、「遅い」というのは、速度が他と異なる、ということが主たる論点です。
いずれにしろ、こういう息子と付き合って16年経ち、結局これらの「症名」などどうでもいいことに気づかされました。
実際、療育機関等でたくさんの子供さん達を見てくるとともに、幼稚園から高校まで「健常」な同級生の子供さんたちを知る中で、療育機関で療育を受けている子供さんたちも十人十色、個性の違いと同様に「症状」の違いもあって、本やインターネットに紹介されているそのまんまピッタリ、という方が少ないと言えます。逆に、親や学校など周囲が「健常」と考えている子供さんたちの中にも、かなりの割合で「何らかの症名を付与すべき」と思われる子がいます。
何よりも私自身、子供の頃の自分が明らかに何らかの「症名」をつけなければならなかった存在であることに、息子と接していて気づかされました。
そこで「不思議症」の出番です。いろいろな「症名」をつけても、はっきりした対処法が確立されているのでもなければ無意味です。無意味なのなら細かく呼び分ける必要性もない、ということで、私はこのような「障がい」をひっくるめて「不思議症」と呼ばせていただくことにしました。
なぜ「不思議症」なのか…それは、このタイプの「障がい」の特徴が「できることとできないこと」「分かっていることと分からないこと」のバランスが異常だからです。つまり「こんなことができるのに、こんなことができないなんて」「こんなことが分かっているのにこんなことがわからないなんて」…その後に続く言葉は「信じられない」「不思議だ」とならざるを得ないからです。
← もくじに戻る